CRM推進部 上田 千歳
その5から続きます。
ピースアクションInオキナワ参加の報告です。
2025年3月27日
2日目 フィールドワーク
全長269メートルの自然の大鍾乳洞です。自然にできた鍾乳洞を「ガマ」と呼びます。
このガマに向かう前はたくさんの注意事喚起がありました。
懐中電灯と軍手は必須。必要最低限のものだけを持ち、歩くのに不安がある方はバスに残る、中にある石などは絶対に持ってこない。
カメラもメモ帳も置いてヘルメットをかぶり、全員でガマのいり口から一列になって下に降りていきました。
アブチラガマについて
最初このガマは糸数住民の避難場所でしたが、日本軍の地下陣地として使用されました。その後、南風原陸軍病院の糸数分室になり、軍医、看護婦、ひめゆりの学徒が移動してきました。
小川が流れ中間には井戸、かまどのある大鍾乳洞は600名以上の負傷兵であふれていました。
兵士は安全な奥に、住民は入り口付近の危険な箇所に追いやられました。米軍が迫った5月末、南部への移動命令が出され、歩ける人は逃げ、残された重症患者には青酸カリや手りゅう弾が配られるなど、置き去りにされました。その数約200人です。6月はじめ米軍がガソリンを流して火をつけたり、入り口をふさいで生き埋めにするなど様々な攻撃を行いました。
8月、生き残った人はガマを出ることになりますが、数えきれないほど多くの人が亡くなりました。
東江さんを先頭に一列になって入り口から急な階段を降りていくだけで、鼓動が早くなりました。暗く湿っており、絶望的な気分になっていきます。天井を見て初めて天然の鍾乳洞だと自分の脳が認識します。ただし、壁は、城の壁のように、きれいに石が積まれており、人の手が入っていることがわかります。
滑らないように気を付けながら開けた場所にたどり着くと、そこは「助かる見込みのない破傷風患者、脳症患者の場所」と説明を受けました。ひめゆりの学徒はこの区域は立ち入り禁止だったとのこと。爆風除けの大きな壁も石積みで作られていました。
順路にあわせて移動します。
病棟や軍医の居場所、治療室などがガマの中央部に位置し、きれいな水をたたえた井戸とそこに注ぎ込む小川が一段低い場所にありました。
そこで参加者の電灯を消すよう、東江さんから呼びかけがありました。
光が一筋も通っていない闇が訪れました。上も下も全くわかりません。
動けるものだけ、ガマを出て退去したあと、残された歩けない重症患者たちはこの闇の中で過ごしましたそうです。
亡くなった方の遺体があふれた地獄のようなガマの中で生き残った日々野勝廣さんの話をお聞きしました。
動けない他者に水を運び続けた日々野さん。自分だけでなく、人を助けたいという気持ちが人間に生きる気力を与えるんだと一筋の光を見た気持ちになりました。
傷に蛆がわき、痛みに苦しみ、故郷、家族を想いながら骨となった多くの方の遺骨は魂魄の塔に埋葬されたとのこと。が、今もまだ小さな骨の多くはガマに残っているそうです。
階段を上り外に出て初めて自分が緊張していたことに気が付きました。
隠れ場所としてガマがあったことが住民の命を守った一方、沖縄戦が悲惨すぎる結果を招いたのでは、と考えました。多くの命に手を合わせることしかできませんでした。
その7に続く