日本生活協同組合連合会と沖縄県生活協同組合連合会が共同で開催する、
沖縄の戦跡や基地をめぐる学びの場です。
2025年は42回目の開催です。3月26日~28日までの3日間をご報告します。
組合員活動部 組合員活動課 井上嘉博
玉城デニー沖縄県知事よりピースアクションinオキナワ開催におけるあいさつがあり、那覇市の小学生から高校生による、沖縄戦の様子がうかがえる演技がありとても迫力があるものでした。
玉木利枝子さんの講演では苛烈な地上戦で祖父と兄を亡くしたお話し、戦場での自らの体験を語られました。水がほしいとうめきながら息を引き取った、沖縄戦に巻き込まれた兄に水をあげれなかったのが悔やまれるとおっしゃられており、目の前で身内を亡くされた悲痛な思いが伝わってきました。
過去、沖縄の王朝であった琉球王朝の城の首里城。2000年に世界遺産に登録され、現在も2019年に発災した火事により再建を行っていました。
沖縄戦においては、日本軍が首里城の下に地下壕を掘り、陸軍第32軍司令部をおいたことでアメリカ軍から攻撃を受け焼失したようです。また、終戦工作を有利に進めるためアメリカ軍本土上陸を遅らせようと、司令部を南部の摩文仁(まぶに)へ移動しました。那覇市から、住民がいるところを飛び越して南部へ司令部を移したことで、住民を巻き込んだ沖縄戦が始まってしまいました。
ひめゆり平和記念資料館では、宮城喜久子さんの戦争体験の動画を視聴しました。
ひめゆり学徒隊は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等学校の生徒が看護活動にあたり、教師あわせて240名が沖縄陸軍病院に動員されました。
本部、第一、第二、第三外科にわかれましたが、薬や包帯もなく病院の役目を果たせなくなり、陸軍病院は「解散命令」により、突如戦地に放り出されました。軍は、「最後の一人になるまで戦え」「アメリカ軍は鬼畜だ」と捕虜になることは許されず海岸に追い詰められて自決した人も、海岸沿いの岸壁を逃げる途中波にさらわれた方もいたそうです。
宮城喜久子さんの戦争体験では、「解散命令後」荒崎海岸まで先生と生徒と海岸沿いを北上し逃げ、岩陰に隠れていたそうです。
そこに、怪我をしている日本人兵士が助けを求めやって来た時、アメリカ兵も追って学徒隊の方に向かってきました。その際、銃を乱射され流れ弾が生徒に当たり亡くなりました。
宮城さんは、外の岩陰に隠れていましたが見つかり、「アメリカ軍に捕りょにされたら死ぬよりひどい目にあう」と教え込まれていたため、持っていた手りゅう弾のピンを抜こうとしましたが、友達にとめられたそうです。その時、下の隠れていた岩の壕の中で「ドン!」という爆発音が聞こえたそうです。先生と生徒が、アメリカ軍が来たため手りゅう弾のピンを抜いて自害。宮城さんは、その後、先生や生徒のバラバラな死体を見ることとなり一生忘れない光景だったと語ってありました。アメリカ軍は、優しく声をかけてくれて、傷の手当てや食べ物を支給してくれたとのこと。「教え込まれてきたことと全く違う。これを最初から知っていれば、解散命令のあと悲惨な出来事、学徒隊・友人多くの死傷者を出さなくて済んだのに」無知だったといことに気づき酷く自分を責めたようでした。
宮城喜久子さんは、このような体験をについてずっとお話しされず、口を閉ざしていたようです。メディアの方から現地にいき、「ぜひ後世に残すため、語ってください」と何回も言われたそうです。荒崎海岸の現地に行ったとき、そこがごみの廃棄される場所となっていたことがきっかけでお話しすることになったそうです。「このままでは、私たちが体験したことが何もなくなってしまう」そのようなことから、今のひめゆりの塔や資料館も民間で作ったそうでした。
ひめゆり平和記念資料館では、200名以上の亡くなられた方の遺影の写真とどのような最後だったのか、性格なども書かれていました。
宮城喜久子さんも亡くなられているため、このような動画は後世に残るため、貴重なものだとあらためて思いました。
3日目の様子は その2 に続きます。
こちらの内容はエフコープのホームページでも後日公開予定です。