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沖縄の過去、現在を学び 平和な未来につなげよう③

その3:沖縄で私の見たもの聞いたこと

 

CRM推進部 上田 千歳

 

その2から続きます。

沖縄戦当時 10歳だった玉木さんのお話

(講演を文字に起しました)


小学校1年生の時に第二次世界大戦がはじまり、小学校4年生で那覇の大空襲に巻き込まれました。

私の学校の学童疎開※の割り当ては対馬丸でした。乗船予定だったところ、「こんなチビは行かせても無理だ」と祖父が印を押さなかったことから、乗船を免れました。乗船した1,788名、うち助かった子どもは59名です。友達の名前を憶えています。

 

医師だった父の病院も空襲で焼かれ、宜野湾に移りました。生活は苦しかったですが、子ども心に楽しみも見つけていました。来る日も来る日も防災訓練です。4本の指をぴったりとつけ、親指は耳の中、残りの指は目を覆い、爆風で眼球が飛び出ないように訓練していました。

父と叔父が出征して14歳の兄も作業に駆り出され2,3日に一日帰宅する日々でした。

 

1945年3月26日。慶良間諸島に上陸していることが、本島から目視できました。秘密ですが…艦砲射撃で分かるのです。撃ちこみ、弱ったところに上陸してくるのが常套手段です。

 

死ぬときは一緒、という祖父の想いを受け、空襲を受けた家族は従軍している父を追いました。「首里に総司令部があるらしい」を信じ、のどかで静かだった首里の城下町に行くとアカギの木の葉一枚も残っていないほどでした。

 

「球(たま)部隊はどこですか?」と聞くと「スパイか!?」と恫喝されました。

父を探すために南に向かって何日も雨に濡れて歩きました。絶対に怪我できない不衛生な状況です。怪我をして傷が腐ると蛆がわくからです。

 

どの壕もいっぱいで、何日も歩いて入れてもらった東風平。兄が腕を負傷してぶら下がったような状況で亡くなりました。

 

近くの壕が焼かれると逃げる、をくりかえします。壕を離れるときに一緒に行けない人たちに置いていくおむすびやミルクは毒だとわかっていました。民間人で気をおかしくする人は見ませんでしたが、軍人でおかしくなっている人は何人も見ました。銃剣をもってブルブル震えていました。

 

ひどい空襲がやむのを待っている時、うずくまっていた祖父が「やられた」と言いました。破片で背中とわき腹にかけて傷がありました。そちらを見ていないうちに祖父は自決をしたと叔母から聞きました。

自決そのものより、自決をする決心が辛かったと思います。これが戦場です。人間の頑張りも努力も何も通用しない問答無用の世界です。

 

その後、軍属の男性と女性と叔母やいとこたちと何日間か一緒に動きました。その時、自分の始末をするときに使うもの、と手りゅう弾をもらいました。

米軍に捕まると、生きたまま生で割かれたり、生きたまま戦車でひかれると言われていましたので、宝物にしました。

 

顔が見える距離で飛行するグラマンが飛んでいないし、ずっと聞こえていた近距離での砲声が聞こえないことに気が付きました。

戦争が終わったと言われた時、手に持った手りゅう弾の入った袋を振り回しながら、丘を登り「勝った!勝った!」と声を上げました。

 

命があれば荒地から城をなすことができます。命さえあれば、街も復興します。

 

 

 

※学童疎開…第二次世界大戦中の空襲から子どもたちを守るため、都市部に住む学童(小学校3年生から6年生)を、郊外や地方の農村などに一時的に避難させることを指します

 

※対馬丸…太平洋戦争中に沖縄から九州へ学童疎開の際に使用された貨物船。1944年8月22日、アメリカ軍の潜水艦に撃沈されました

 

「大人コース」の学習会を紹介する その4に続く

 

 

 

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