コープ職員ルポ
臼杵市は、大分県の東南部に位置する人口は約4万人のまち。東は豊後水道に面し、ふぐ料理や石仏でその名を知られています。そして醬油やみそなど、醸造業が盛んなまちでもあります。その臼杵に、コープの醬油やみそを製造しているフンドーキン醬油株式会社があります。醸造のまちに根ざしたフンドーキンの歴史と今を訪ねました。
臼杵のお城は、キリシタン大名としても有名な大友宗麟が1556年に築城しました。当時は島だった海岸そばの高台に城跡があります。 宗麟は商いを重要視しており、海運を利用しての貿易が行われる城下町として栄えました。現在でもそのなごりで、お城に近い地域に古くからの商家が軒を並べています。
関ケ原の戦い後、美濃の郡上八幡※の城主だった稲葉氏が臼杵藩を治めることになりました。臼杵の人口が最大だったのは、江戸時代だそう。武家や商家の門構えに往時がうかがえます。 ※現在の岐阜県郡上八幡(ぐじょうはちまん)市 稲葉氏とともにやってきた家臣の一人、可児孫右衛門が美濃での醬油・味噌づくりの技術をもって創業したのが、現在の鑰屋可児醬油(かぎや かにしょうゆ)です。その時臼杵にあった小さな味噌屋さんや醬油屋さんは可児醬油から新しい技術を習ったのだと言われています。
江戸時代末期の安政2年。農業を営んでいた小手川角三郎が、臼杵のまちへ出て、酒造業を始めました。屋号は「代屋」、現在の小手川酒造です。この代屋の二代目の時代に醬油や味噌を造り始めたと言われています。臼杵のまちの内陸側は麦や米が作られる農村地帯。できた麦や米を臼杵のまちに集め、醬油や味噌に加工して付加価値をつけ、港から上方や江戸に送るという産業が臼杵の町に発達していきました。
酒造りの仕込みは年に1回。そのため麹をつくるための「麹室(こうじむろ)」も、半年間は使いません。そこで空いている期間をいかして醬油や味噌づくりが始まったそうです。そして二代目の弟、金次郎さんが分家をして「小手川商店」を創業。できた醬油や味噌の販売を担当するようになりました。これがフンドーキン醬油の創業です。文久元年(1861年)のことでした。